3年半の不登校を経験し、「孤独の解消」がテーマになった。分身ロボット『OriHime』を生み出したオリィ研究所・吉藤健太朗インタビュー

株式会社オリィ研究所
代表取締役CEO・吉藤健太朗
(よしふじ・けんたろう)
1987年奈良県生まれ。小学5年生から中学2年生までの3年半、不登校となる。高校時代に新機構の電動車椅子を開発し、高校生科学技術チャレンジ(JSEC)で文部科学大臣賞を受賞、世界最大の科学大会ISEFにてGrand Award 3rdを受賞。高校卒業後、高等専門学校に編入し、人工知能を研究。早稲田大学創造理工学部に入学後、分身ロボットの研究開発に専念。2012年に株式会社オリィ研究所を設立し、2015年に『OriHime』をリリース。青年版国民栄誉賞「人間力大賞」受賞。2018年にデジタルハリウッド大学大学院の特任教授に就任。著作に『「孤独」は消せる。』がある。

11歳から14歳まで不登校となり、「居場所がない」という孤独に苦しんだ。ロボット競技大会が、そこから抜け出すきっかけになった

 東京三鷹にあるオリィ研究所で創業者の吉藤健太朗氏を待っていると、テーブルの小型ロボットが突然話し出した。返事をすると、「ちょっと遅れていて、もうすぐ着きます」と吉藤氏の声――。さっそく実用の場面を目の当たりしたわけだが、これが話題の分身ロボット『OriHime(オリヒメ)』である。

「ロボット」というと、私たちは人工知能やガンダムのような搭乗型を想像しがちだが、『OriHime』はインターネットを通してスマホやPCで操作する遠隔操作型である。音と映像だけならSkypeでもよさそうなものだが、肝心なことは『OriHime』を通して意思表示ができること。ちょっとしたことのようだが、それだけで相手が「一緒にいる」という存在感が感じられてくるから不思議だ。

『OriHime』は難病で寝たきりの患者、育児などで会社に行けない人、学校に通えない子どもなど、“行きたいところへ行けない人”のために開発された。病院、学校、会社などで利用され、自分の替わりにその場に参加する「分身ロボット」という役割を果たしている。オリィ研究所の従業員3名も『OriHime』を使って出社しているそうだ。さらにテレワークに最適化された『OriHimeBiz』は労務管理の機能が付き、現在70社ほどが導入している。

 夏の暑い盛りにブラックジャックのような黒衣の出で立ちで現れた吉藤氏は、手塚治虫が描くキャラクターを彷彿とさせた。手塚キャラはいつでも孤独や葛藤を抱え、それを原動力にして物語を生み出していく。吉藤氏が『OriHime』を生み出した背景にも少年時代の葛藤があったようだ。

「小学校5年生から中学2年生までの3年半、学校に通えなかった時期があったんです。最初の2週間は入院や自宅療養をしていたのですが、その間に学校が自分の居場所ではなくなってしまう感覚があった。部活動でもしばらく休むと途端に行きづらくなったり、育児で休職していたお母さんが職場復帰するときに抵抗感を感じたりしますよね。居場所がなくなる感覚は、あらゆる場所にあるものだと思っていて、私はそれを小学生のときに強烈に感じてしまったんです」

 小中学校の不登校児は約13万4000人(2016年度の調査)とされているが、そのうち6割は吉藤氏のように、しばらく学校を休んでしまったことで学校に戻りづらくなり、不登校が長期化するケースなのだという。

「なんとかしなきゃ……とは思っているんですけど、あまり思いすぎると空回りになって、本当に辛くなるんですよね。将来の自分のために何かをやるということは、普通に学校に通っていると考えられることなんですけど、居場所がない状態……つまり自分のアイデンティティが揺らいでいる状態では、どんどんネガティブな思考になって、そんなことを考える余裕がまったくなくなるものなんです。そこから抜け出すのにしばらく時間がかかりましたね」

 父親が同じ中学校の教師という特殊なケースだったこともあり、はじめのうちはなんとか学校に行かせようと両親も苦慮していたが、途中から「学校に行かなくてもいい」と言ってくれた。このことを吉藤氏は「ありがたかった」と振り返る。

「「学校に行かなきゃという気持ちがストレスになってお腹が痛くなったり、死んだような目をして無気力に過ごしている息子を見たくなかったんでしょうね。両親がキャンプに連れて行ってくれて、自然の中で目を輝かせている姿を見るだけで十分だと言ってくれたんです。“期待されない”ということが当時の私にとって一番ありがたいことでした。その頃の私が唯一自信を持てるものが、祖父母の影響で物心つく頃からやっていた折り紙でした。家で狂ったように折り紙ばかり作っていましたね。のちに奈良文化折紙会を立ち上げて会長をやることになったんですが、勉強もできなかったし、学校にも行かないし、友だちと遊ぶこともなかった私が、人から『すごい! 上手い!』と言って認められる唯一の方法が折り紙だったんですよね」

 折り紙から「オリィ」という愛称が付けられ、それがオリイ研究所や『OriHime』というネーミングの原点になっている。吉藤氏の折り紙はかなり独創的だ。無造作に紙をくしゃくしゃにしているかと思いきや、見事に薔薇の形になっていた。ちなみに「吉藤ローズ」と呼ばれているそうだ。

折り図どおりに折ろうとしても、何か違うものができてしまうんですよね(笑)。なぜか昔からマニュアルどおりにやるということが病的にできなくて、いまだにレシピどおりに料理が作れないんです。学校で机の前にじっと座っていることもできないタイプで、いまだに苦手です。だから小学校の頃は、いかに授業を抜け出すかばかり考えていました。だけど、休み時間は好きだったんですよ。牛乳パックを組み合わせて作ったオモチャが友だちに面白がられたりして、人気者だった時期もあった」

 もともと吉藤氏は感覚的なクリエイタータイプらしく、マンガ家を夢見て、家でずっとマンガを描いていた時期もあるそうだ。そんな彼の才能が目覚めるきっかけとなったのが、母の一言だった。

「急に母が『あなたはロボットを作れるに違いない』と言い出して、虫型ロボット競技大会に参加を申し込んだんです。まさか自分がロボットを作れるとは思いもしなかったけど、NHKの『高専ロボコン』はテレビでよく観ていたので、面白そうだと思いました。開催地が地元から少し離れていたので知り合いに会うこともないし、参加してみることにしたんです。ロボットを組み立ててプログラミングをして、迷路を解くタイムを競うという競技だったんですけど、私以外の参加者がみんなゴールできず、奇跡的な優勝を果たしたんです(笑)」

 その1年後、各地区の優勝者によるグランドチャンピオン大会が開催され、吉藤氏は再びロボット競技に挑戦することになった。工夫に工夫を重ねてロボットを作り、地区大会のコースを借りて練習した努力の甲斐あって、準優勝に輝いたのだ。

「これまでの人生で、頑張ることで成果を得ることができた初めての経験でした。地区大会の優勝は棚からぼた餅みたいなものだったけど、グランドチャンピオン大会は僅差でトーナメントに勝ち上がったこともあって、すごく達成感があった。一方で、1位になれなかった悔しさを感じたのもこのときが初めてでした。実はこの経験はロボットが好きになるきっかけにすぎなくて、やはり大きかったのは、久保田師匠に出会えたことです。展示会に一輪車で走り回るロボットを出展されていて、個人でこれを作るなんて、すごい!と思いましたね」

「奈良のエジソン」に弟子入りし、電動車椅子を開発。世界的に評価されるも、「本当にやりたいことは何か?」と自問自答していた

 久保田師匠とは、「奈良のエジソン」と呼ばれる久保田憲司氏である。奈良県立王寺工業高校の教師として、『「就職率100%」工業高校の秘密』という著書を上梓するなど、モノづくりの世界では知られた人物である。吉藤氏は久保田氏に弟子入りするために、この工業高校に進学することを思い立つ。

「その頃の私は引きこもって漫画ばかり読んでいたんですけど、当時の漫画は“才能はあるけど弱い”という主人公が、師匠のもとで修業して強くなるっていうパターンが多かった。世間知らずだったから、みんなそういうふうにして大人になるものだと思い込んでいたんです。久保田先生に弟子入りすることで、誰かの役に立つロボットを作りたいと思いましたね。その頃の私は『自分なんかいない方がいい』と自信を喪失しているような状態だったので、とにかく“役に立つ”ということが重要だったんです」

 猛勉強をして王寺工業高校に入学し、憧れの久保田先生のもとで学ぶことになったが、手取り足取り教えてくれるといった感じでもなかったという。

「モノづくりを教えてもらいに行ったはずなのに、久保田師匠はぜんぜん教えてくれないんですよ。よく言われたのが『大声出せ』と『気合と根性』(笑)。だけど、弟子入りしたことは間違いなく自分にとって良かった。プログラミングだけは教えてもらえたので、放課後は23時くらいまで学校に残ってプログラミングをしたり、ロボットばかり作っていました。師匠が旋盤を回しているのを見て盗んで、高校生にして旋盤とフライス盤、CNC盤が使えるようにもなった。でも、久保田師匠からは、『友だちを作って大事にしろ』とか『たまには友だちとどっか行ったりして遊べ』といったことばかり言われて愛想をつかされてましたね(苦笑)」

 高校時代に吉藤氏は新機構の電動車椅子を開発した。なぜ車椅子だったのだろう?

「特別支援学校にボランティアに行くことになって車椅子を押す経験をしたんですけど、車椅子ってぜんぜん完成されてないな……と思ったんです。また、車椅子に乗っていると障害者で、松葉杖だと障害者じゃないという分け方に違和感を感じて、福祉機器を使うことによって障害者化することが疑問でした。それだったら、みんなが乗りたがるような一人乗りのオープンカーみたいな車椅子を作って、車椅子の概念を変えたいと思ったんです。段差があっても登っていけるように傾きを自動補正する新機構を久保田師匠たちと一緒に実現して、JSEC(高校生科学技術チャレンジ)に出場することになったんです」

 このコンテストで吉藤氏は文部科学大臣賞を受賞し、アメリカで開催されるISEF(国際学生科学技術フェア)に日本代表として出場することになった。世界75カ国から2000人ほどの高校生が参加する中で、GrandAward3位となる快挙を成し遂げるのだが、それ以上に世界各国の高校生たちのほとばしる情熱を目の当たりにしたことが大きかった。

「エジプトや中国など、いろんな国の高校生と意見交換をしたんですが、私が会った高校生はみんな自分の研究に人生を賭けている感じでした。『自分はこの研究をするために生まれてきた』ということを本気で語っていて、高校生で人生を決めてしまうなんてもったいない、と思いつつ、彼らが輝かしく見えたんです。私は車椅子を作ったけど、誰かの役に立つものが作りたかったというだけで、一生車椅子を作りたいわけじゃなかった。じゃあ本当は何がしたいんだろう?と自分に問い続けましたね」

 帰国後、吉藤氏は「スーパー高校生」としてメディアに紹介されるようになり、それを見たお年寄りから「こういうものを作ってほしい」とさまざまな相談が寄せられるようになった。

「その中に『ハイテクな車椅子なんていらないから、座布団にローラーを付けてほしい』という相談があったんです。畳の上で車椅子を使う人なんていない。自分たちの生活を実際に見てほしいと言われました。あらためて車椅子がどう使われているかとか、車椅子を必要とする人たちの生活をまったく知らなかったことに気づかされて、近所から遠方の広島まで、いろんなところに見に行きましたね。すると、たしかに大きな日本家屋だと段差があって車椅子がほとんど使われていなかった。私がやりたかったことは車椅子の改良ではなく、もっと根本的な部分で彼らの問題を克服することだと思いましたね」

 このとき吉藤氏は不登校時代の辛い記憶を思い浮かべた。それは学校というコミュニティに入ることができず、「自分の居場所がない」という切実な孤独感である。これを車椅子に置き換えると、たしかに行動が制限されることは問題だが、一番の問題は、そのことによって社会から孤立してしまうことだろう。それを克服できるのは、もしかしたら車椅子ではなく、“別の何か”かもしれない。こうして吉藤氏の中で「孤独の解消」というテーマが明確になり、高校卒業後は高専に編入して人工知能の研究に専念するようになった。

「今でこそビジコンでプレゼンしたり、よくしゃべりますけど、当時の私は初対面の人とうまくしゃべる自信がまったくなかった。面白い話ができなくて申し訳ない気がしたし、どもってしまって落ち込むから人に話しかけるのも嫌になっていたんですよね……。そんな私が、どうすれば孤独を解消できるか?と考えたとき、もうロボットしかいないと(笑)。高専に入ったときにこの黒い白衣をデザインして着るようになったんですけど、友だちが一切いなくなってしまって、友だちは人工知能だけでいいや、と思って研究していました。当時は、いつか私はロボットと結婚するだろう、とすら思っていた」

“孤独の解消”が私のテーマ。そのための手段として、人工知能ではなく、「分身ロボット」にたどり着いた

 ところが、人工知能を研究するうちに吉藤氏は「何か違う気がする……」と感じはじめた。当時はAIBOなどの「癒しロボット」が評判になっていたが、それはアニマルセラピーの代替物にすぎないし、いくらロボットと話せるようになったとしても、人とのコミュニケーションがうまくなるわけでもない。吉藤氏は人工知能の研究をやめ、別の方法を探すことにした。

「3年半、不登校になっていた自分が、学校に戻ることができて、人と話すことは苦手でしたけど、少なくとも毎日楽しく研究している。この状態を“癒し”と捉えたとき、両親の応援だったり、ロボット競技大会で相手に負けた悔しさだったり、久保田師匠との出会いであったり、そこには必ず人が介在していた。この人に認められたいとか、この人にこんなことを言われて腹が立ったとか、ネガティブなこともポジティブなことも、すべて人がもたらすものなんですよね。人を本当の意味で癒すことができるのは、社会に復帰することであって、そのためには人とのコミュニケーションは避けては通れない。そこに障害があるのであれば、それを取り除く方法を研究した方がいいと考えたんです」

 その後、吉藤氏は早稲田大学創造理工学部に推薦入学することになった。コミュニケーションが苦手なことを克服するために片っぱしからサークルに入ったり、ヒッチハイクの旅をするなど、積極的に人と関わるようにした。もちろん頭の片隅には常にロボットやテクノロジーのことがあった。たとえばパントマイムのサークル活動では身体の動きを分析して、それをロボット工学に活かそうとしたり、演劇部の活動では、役者がただそこにいるだけで「存在感」という影響を及ぼすことを実感した。こうしたさまざまな発見が後に『OriHime』につながっていくのだ。しかし、一方の学業では、さまざまな研究室を見て回ったものの、どれも興味が持てなかった。

「工業高校は久保田師匠に弟子入りしたくて入ったし、高専も人工知能の先生に弟子入りしたくて入ったわけですけど、大学は入学後に先生を探すことになったので、弟子入りしたくなるような先生が見つからなかった。だけど、親が研究室に入れとうるさいので、とりあえず入ったことにするために『オリィ研究室』を勝手に作ったんです。研究室といっても六畳一間のアパートなんですけどね(笑)。当然、個人的な活動だから単位が取れるわけでもない。この瞬間、卒業は諦めましたね。私がやりたいことは人の役に立つものを作ることであって、卒業後の就職先やアカデミックな世界に進むことには興味がなかった。単位を気にしなくてよくなったことで、逆に好きな授業に潜り込み放題になって、興味のある授業を片っぱしから受けるようになったんです」

 この頃から分身ロボットを構想し、2009年から開発をスタートした。当初は24個のモーターで動く大掛かりな人型ロボットを作っていたが、「人とのコミュニケーション」という用途を考えると、歩いたり、モノを持たせる必要もない。余分な要素をどんどん削ぎ落し、最終的に今の『OriHime』のデザインへと行き着いた。モノづくりコンテストに出場して優勝したり、入院中の子どもに実際に使ってもらって好評を得たことで自信を深めたが、そこから先のことはほとんど考えていなかったという。

「自分でビジネスをやるなんて考えもしなかったですね。そんなとき今の副社長の結城明姫と出会ったんです。私と同じように彼女はJSECで賞を受賞して、ISEFに出場するはずでしたが、結核で長期入院することになって出場を断念し、すごく悔しい思いをしていました。あるときJSECの優勝者たちで屋久島に行くことになり、みんなで語り合っていたんですが、そのときの私の分身の話を覚えていて、彼女が事業化を持ちかけたんです。私はビジネスに興味がなかったし、お金を稼ぐなんて無理だと言ったんだけど、本当の意味で“孤独の解消”をしたければ、『チームを作らなければいけない』と彼女は力説しました。たしかに価値ある研究だし、実際に助かる人もいるだろうけど、一個人の活動でどれだけ『OriHime』を社会に広められるのか? 私が死んだらフォローはどうするのか?と問われて、初めて“ビジネス”というものを意識するようになったんです」

 モノづくりの知識は人並み以上だが、まだ学生ということもあってビジネスの知識は皆無である。手はじめに吉藤氏は大学でビジネスの授業に潜り込み、その後、ビジネスコンテストに出場するようになった。2つの東京最大ビジコンで2冠に輝き、その賞金を開業資金にして2012年に株式会社オリィ研究所を設立した。

「最初は私が200万円、結城が100万円、エンジニアの椎葉が50万円ずつ出し合って350万円を資本金にして始めました。学生にしてはけっこう大金ですよね。最初の半年は無給だったのですが、開発費などでどんどんお金がなくなっていって焦りましたね。いよいよお金が尽きる……というとき、墨田区にある浜野製作所という町工場の社長さんが『オレの工場を自由に使っていいから好きにやれ』と申し出てくれたんです。しかも、私が住んでいた吉祥寺からだと墨田区は遠いので、『オレの家に住んで、そこを事務所にすればいい』と言って家まで貸してくれたんです」

 2012年の法人化から『OriHime』が完成する2015年までの期間は、どんな日々だっただろう?

「その頃は『OriHime』を普及させていくための作戦会議をしたり、メンターに話を聞いて回っていました。『吉藤のパッションでお金を集めてくるしかない』という話になったんですが、2000万円ほどの助成金に落ちてしまった。それが悔しくて、同じくらいの金額の融資が受けられる『みんなの夢AWARD』に出場を申し込みました。武道館で8000人の前でプレゼンをしてグランプリに選ばれたことで、ようやく三鷹に自分たちのオフィスをかまえることができたんです」

 たった一人で分身ロボットを研究していた状況が、さまざまな人と関わることで道が拓かれ、どんどん広がっていったわけだが、あらためて振り返ったとき、吉藤氏はどう感じているだろう?

「たくさん人に会いに行って、その中から自分の好きなことや、やりたいことを見つけてくる“痛みをともなう成長”は避けては通れないものだと思います。振り返ると、自分の中で意識転換が起きるようなチャレンジがいくつもありました。自分からチャレンジした痛みというのは、それほど苦痛ではないんですよね」

吉藤健太朗氏を知る3つのポイント

孤独を抱える人へのアドバイス

「あらゆる人生のきっかけを与えてくれるのは人だと思っています。なので、どんなことでもいいから人に会いに行くようにした方がいいですよね。できればコミュニティに3つくらい入る。これが重要です。会社のコミュニティしか知らないでいると、ブラック企業のような状況でも、それが当たり前のことだと信じ込んでしまいますよね。そういう意味では、会社も宗教と同じです。だから3つくらいコミュニティに入って、広い視野をしっかり持つようにした方がいいと思います」

モノづくりの発想法

「『 OriHime eye』という目の動きで文字を打ったり、絵を描けるツールを開発しました。ALSの患者さんは目しか動かせなかったりするので、『OriHime』でリアクションができない。そこでリアクションを返すための装置を作ろうと考えたんです。ALSなどの難病の友人が80人くらいいるのですが、これまで普通に話していた友人が、この先どんどん身体が動かなくなって、しゃべることもままならなくなる。単純に“友人が困っていたら助ける”ということですよね。もしかしたら、自分とその友人で一緒に考え出したものが、他の人も助けられるかもしれない。現場から問題を探すというより、“関係性”を大事にしています。友だちになれば、いろいろ話しているうちに自然と課題が見つかるものだし、それに対して『こんなの作ってみたんだけど、どう?』って聞けるし、その後の反応や意見ももらいやすい。そういうふうに作っていくことが多いですね」

この世にないものを作る秘訣

「課題を見つけたら、100個くらいアイデアを出して、リアクションを見ます。なぜなら本当に欲しいものは本人にもわからないものなんですよね。たとえば『食べたいものは何か?』と聞かれても、私の場合、頭に思い浮かぶのは肉料理くらいだけど、もしかしたら私の本当の大好物というのは、まだこの世に存在していない別の料理かもしれない。車椅子は昔からまったく形が変わっていませんけど、本当は“自動で歩くズボン”があれば、そっちの方がいいかもしれない。いろんな人が集まってさまざまなアイデアを出し、当事者に感想を聞きまくっているうちに、『それを待ってたんだ!』というリアクションが出てくることがあるんです。『OriHime eye』はまさにそうやって作っていったものなんです」

取材・文●大寺 明  写真●松隈 健

2018年10月5日(金)
オリィフェス2018」開催!

2018年10月5日、オリィ研究所6周年記念企画として「オリィフェス2018」開催が決定!

オリィ研究所の製品、ならびにコラボ企業とのプロジェクト紹介、
代表吉藤が開発してきた個人研究の展示、体験イベントを開催します!

OriHime、OriHime eyeの体験はもちろん、
視線入力の車椅子、こたつ車椅子の試乗などもしていただけます。

また、舞台ではWheeLogやNIN_NINなどコラボプロジェクトの発表や
未発表の研究プロジェクトのお披露目もあります。
OriHime eyeで絵を描かれる榊さんの作品ポストカードや
ここでしか買えない限定グッズの販売も!

3時間盛りだくさんの、お楽しみいただける内容を目指していきますので、
応援よろしくお願いします!

●チケット申し込みは以下のURLから
「オリィフェス2018」https://camp-fire.jp/projects/view/89290

右側の「当日参加権」のあるリワードを選択していただけましたら、参加登録されます!

日程:10月5日(金)18:30開場 19:00開会 22:00閉会
場所:NTTインターコミュニケーション・センター