『街場のメディア論』要約まとめ

テレビ、新聞、出版の「メディアの不調」が続いています。メディアの当事者たちは、ビジネスモデルやインターネットに要因があるとして他人事のように批評しがちですが、メディアについて語るには、「常套句化しているメディア批判の言説から一歩離れないことには始まらない」というのが思想家・内田樹氏のスタンス。そして、「メディアの不調はそのまま我々の知性の不調」とも言います。メディアが危機的状況を招いた本質的な問題とは?

 街場シリーズ4冊目となる本書で、メディアの凋落の最大の原因は、制作に関わる人たちの力が落ちたことにあると内田氏は指摘している。年々テレビ番組のクオリティが低くなっていると感じ、内田氏はテレビを見ないことに決めたそうだが、一方で新聞の定期購読者が減り、「テレビだけがニュースソース」という人が増えている。新聞は活字メディアを代表してテレビの構造的問題に対して厳しい批判を加えてしかるべきだが、テレビ局と新聞社は系列関係にあるため、「俗悪番組をやり玉にあげる」くらいの発想しかない。

 以前にテレビ番組の「納豆ダイエット」の虚報事件があった際、新聞はテレビの「やらせ問題」を一斉に叩き、「視聴者を騙すなんて信じられない」と書きたてた。これに対し、内田氏は呆れるような思いだったという。プロの新聞記者なら、テレビ局が下請けプロダクションに丸投げして番組制作をしていることはわかりきったことであるはず。内田氏が「たちが悪い」と感じるのは、「知ってるくせに知らないふりをして、イノセントに驚愕してみせる」ことであり、それ自体がきわめてテレビ的な手法なのである。

 ニュースキャスターが「こんなことが許されていいんでしょうか」と眉間に皺を寄せて慨嘆する常套句が、内田氏は我慢ならない。そこには無垢な自分たちは「こんなこと」にはコミットしていないという暗黙のメッセージが含まれているからだ。メディアが好んで使う「演技的無垢」は、それを模倣する人々の間に社会的な態度として広く流布された。その典型が学校や医療機関に抗議する「クレイマー」の増加である。

 とりあえず「弱者」の味方をすることは、メディアの態度としては正しい。ただし、これは「推定正義」とでもいったものであり、あくまで「とりあえず」の判断なわけだから、どこかで立ち止まって判断の当否を検証しなければならないはず。しかし、「推定正義」の判断を翻すとメディアの威信が低下するという考えから、反証できなくなっている。実はこのことがメディアの知的威信を損なっているのだ。

 バッシング報道には、「私が最終的にこの報道の責任を負う」という個人がどこにもいない。記者たちは先行する誰かの記事を参照して記事を書き、参照された元の記事もまた、類似の記事を参照して書かれている。それが無制限に繰り返される中で「定型」が形成される。これこそがメディアの「暴走」というものなのだ。逆に個人的に「どうしてもこれだけは言っておきたい」という言葉は、決して暴走したりせず、情理を尽くして言葉を選ぶものだ。

 こうした報道のあり方は、ネット上に跋扈する罵倒の言葉にも似ている。2ちゃんねるを例にとると、そこで行き交う言葉の特徴は「個体識別ができない」ことであり、その発言に責任を取る個人がいない。内田氏はこれを非常に危険なことだと指摘する。攻撃的な言葉が人を傷つけるからだけではなく、そうした言葉は、発信している人自身を損なうものだからだ。いわば「私はいくらでも代替者がいる人間である」と公言しているようなものであり、「だから、私は存在する必要のない人間である」という結論を導いてしまうのだ。

 これと同じことがメディアの言葉についても言えそうだ。メディアが急速に力を失った理由は、市民の代表のような顔をして「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、「そのようなメディアは存在しなくても誰も困らない」という平明な事実に人々が気づいてしまったからなのだ。

 メディアの劣化の本質的な問題は、「世論」を語るものだという信憑と、「メディアはビジネスである」という信憑によってかたちづくられている。出版にしても、ビジネスモデルに基づいて出版危機を論じると、未来がないという結論に終始してしまう。ビジネスとして読者を消費者と捉えると、「できるだけ安く、知的負荷が少なく、刺激が多い娯楽」となりがちだが、そうした見下した読者設定そのものが、今日の出版危機の原因となっているのだ。

 読者を「消費者」と見なしている限り、メディアは複雑な話を単純化して加工する「書き癖」を自制できない。そうすると消費者のリテラシーが下がり、それに合わせて記事の質もどんどん下がっていく。この悪循環が出版文化の凋落を招いた。出版文化が照準すべき相手は「消費者」ではなく、書物との深い関係を望む「読書人」であるべきだ。この読書人層をどうやって継続的に形成すべきかを最優先に配慮すべきだろう。

 マスメディアが危機的状況に陥る一方で、人気ブログやSNSなど、マスメディアとパーソナルメディアの中間にある「ミドルメディア」のほうが前途は明るいかもしれない。内田氏も多年にわたって個人ブログを書いているが、新聞のように自粛を強いられることもなく、何を書いても誰に怒られるわけでもないという気楽さもあって無償で情報を発信し続けてきた。その結果として、ブログを再構成した書籍を「有償で購入してもよい」という人が出現してきた。こうした経済活動を内田氏は「贈与と反対給付義務」として論じている。

 メディアの危機的状況を生き延びることができる人と、できない人の分岐点は、「贈与と反対給付義務」というコミュニケーションの本質を理解しているかどうかで分かれてくるだろう。情報発信者から「パスしたもの」が、いつか「これは私宛ての贈り物だ」と思いなす人に出会うまで、長い時間をかけて関係を築いていくしかないのだ。今のメディアに欠けているのは、まさにこの考え方だろう。2010年発行のやや過去の本だが、メディアの本質的な問題点は今もまったく変わっていないように感じられる。

『街場のメディア論』 3つのポイント

●誰でも言いそうな「定型」が、メディアを失墜させた

●「世論」と「ビジネス」が、メディアを滅ぼす

●「知的な価値」のある情報を発信し続けることが大切

文●大寺 明