『天才』要約まとめ

「ビジョン」の重要さが説かれる昨今ですが、日本を大改造する「ビジョン」を提示したのが不世出の政治家、田中角栄です。今ある高速道路網や新幹線網、各県にある空港は彼が1972年に発表した『日本列島改造論』に沿ったもの。彼の生涯を記した『天才』の著者・石原慎太郎は、田中角栄の金権政治を糾弾した過去がありながら、本書ではその偉業をたたえています。仕事と商売の現実感を政治に活かした田中角栄の考え方とは?

 『日本列島改造論』という壮大なビジョンを掲げて総理大臣に就任し、日中国交正常化を果たした田中角栄――。比類なき先見性と実行力を持った剛腕政治家として知られるが、意外なことに幼い頃はジフテリアの後遺症でドモリになり、家に閉じこもりがちな内気な少年だったという。

 成績は良かったが、父親の博労(牛や馬の仲買商人)の仕事がうまくいかなくなり、高等小学校卒業後は大学に進学せず、トロッコで土や石を運ぶ土方の仕事に就く。それは得難い経験だった。一番末端の仕事をしている人間たちの力こそが、この世の中を大きく変えていくのだという実感があったのだ。しかし、いかんせん賃金が安い。辞めるつもりでいたところ、思いがけず工事現場の監督として採用され、立場ががらりと変わった。業者の監督たちも平身低頭である。この世の中の仕組みはお上や役人たちがつくっている縦の仕組みなのだと悟らされたという。

 その後、田中角栄は神田の私立中央工学校の土木科に入学するため新潟から上京するも、徴兵により満州に渡ることに。しかし、重病のため除隊せざるをえなくなり、再び東京に戻り建築の設計や工事請負の仕事をはじめた。事業は順調に拡大し、田中土建工業株式会社は年間の施行実績で全国50社の内に数えられるまでに。このとき会社顧問だった人物から、新政党の選挙準備のために金を工面してほしいという相談があった。同時に立候補も提案され、その場では断ったが、15万円ほど出せば当選するといわれ、その気になった。

 初の選挙は落選したものの、1年後の選挙では選挙区中を走り回って見事当選。代議士となった田中角栄が国会という場で実感したことは、各政党の対立も所詮は互いの利益の軋轢であり、結局は金次第ということだった。新しい法案を話し合うにしても、国民への斟酌がまったく欠けている。これに対し、昔トロッコの土方をしてきた田中角栄は、常に最低の立場に立っているだろう国民の立場を考えて発言し続けた。エリート議員にはそうした現実感覚がなく、「あんたら土方をやって汗水たらしてトロッコ押したことがありますかね」という物言いはたいそう効果があったそうだ。

 この頃、造船疑獄が発生し、政治と金の問題が世間の耳目を集めた。しかし、田中角栄からしてみれば滑稽な騒ぎにしか見えなかった。戦争で失われた海運業復活という国家の存亡にかかわる問題に政治が関与するのは当たり前のことであり、大事な頼みごとをするために200万円くらいの金を持参するのは、挨拶に菓子折りを持参するのとなんら変わらないという感覚である。この騒動をきっかけに、政治家に大切なことは先見性であり、未開の土地、傾きかけている業界や企業に対し政治の力でテコ入れをして育て、再生させるのが政治の本分だという田中角栄の政治姿勢が決まった。

 大蔵大臣、通産大臣を歴任した後、田中角栄は『日本列島改造論』を発表。これがベストセラーとなる。新幹線を日本中に走らせ、各県に空港を設置することで地方の格差をなくすというもので、当時は賛否両論あったが、今では誰もがこの政策の恩恵を実感しているだろう。その翌月に福田赳夫を破り自民党総裁となり首相に就任。これまでずっと官僚というエスタブリッシュメントが首相になるものと思われてきたが、高等小学校卒の田中角栄が首相になったことは、豊臣秀吉の天下取りにも匹敵する快挙であった。

 世間では「角福戦争」と喧伝されたが、実のところ田中角栄は意にも介していなかったようだ。田中角栄は日頃から冠婚葬祭などで人に対してさんざん心遣いをしてきた。人が誰かを選ぶときに大事になるのが、いかに人間関係を築いてきたかという「人触りの問題」。これについては田中角栄には圧倒的な自信があり、結果を見るまでもなかったのだ。

 総理大臣になってやるべきことは決まっていた。『日本列島改造論』の実現と、中国との国交回復という大外交問題である。ともに順調に進めていくことができたが、1970年代に入って石油流通の世界的な危機が到来した。日本は外資系メジャーに石油を依存しており、その背後にはアメリカがいる。これが田中角栄の新たな政治課題となった。そこで田中角栄はアメリカ以外の石油供給源となりうる国を歴訪し、買い付けの交渉を進めるのだが、これがアメリカの逆鱗に触れ、ロッキード事件に発展したとみられる。

 それから間もなく行われた参議院選挙で田中角栄の金権政治が糾弾された。党の公認料として一人3000万円が手渡され、田中角栄は総額で300億円を使ったとされる。さらに追い打ちをかけたのが、ロッキード事件だ。右翼の大物、児玉誉士夫に21億円が渡ったとされ、奇怪なことに児玉とは無関係の田中角栄のもとに捜査がおよんだ。それはロッキード社が売込みのために金を渡した政府高官のイニシャルが「T」だったというだけの理由だった。本書を読む限り、明らかに政治的な作為が感じられる濡れ衣である。

 こうして一国の首相が拘置所に収監されるという前代未聞の事態となり、10年以上にわたって裁判が続いた。当然、田中角栄は首相を退任したが、その後も国会議員100名以上の派閥を率い、政界に君臨し続けた。しかし、晩年は脳梗塞で倒れ、あれだけ雄弁だった田中角栄の声は失われてしまった。総選挙でトップ当選しながらも一度も登院せずに療養生活を送り、1993年に静かに人生の幕を降ろした。金権政治の印象がいまだ根強い田中角栄だが、彼ほど日本のために尽力した政治家もいないかもしれない。後世にさらに評価されるべき日本を変えた“天才”のひとりである。

『天才』3つのポイント

●末端の仕事を経験してきた現実感が、より説得力を増す

●日頃から人間関係を築く「人触りの問題」が選ばれる決め手

●政治もビジネスも、一番大切なことは「先見性=ビジョン」

文●大寺 明