『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』要約まとめ

日本と韓国の両国でミリオンセラーとなった『嫌われる勇気』の続編が本書です。前作を軽くおさらいすると、すべての悩みは対人関係によるものであり、その軸に「競争」がある限り、人は悩みから逃れられないというのがアドラー心理学の基本。前作では他者に認められることを目的とするのではなく、自分らしく生きることを提唱したわけですが、あれから3年……議論の行方は?

 哲人から「アドラーの思想」を教えられ、新たな生き方に開眼したかに見えた青年が、3年ぶりに哲人の書斎を訪れるところから本書は始まる。あれから青年は中学校教師になり、アドラーの思想を実践した教育に取り組んできた。前作で語られた「課題の分離」という考え方から、青年が「ほめてはいけない、叱ってもいけない」という教育方針を実践したところ、学級は荒れに荒れてしまった。それ以来、青年はときには叱り、ときにはほめるという教育に切り替え、「アドラー心理学はペテンだ」と懐疑心を持つようになった。

 こうした経緯を青年が話したところ、哲人は多くの人がアドラー心理学を誤解していると述べた。真の理解を得るには、「愛」を知る必要があるといい、なんでもない日々こそが試練になると話すのだ。こうしてアドラー心理学の具体的な実践法や「愛」について二人は夜通し語り合うことに。

 本作のテーマとなる教育の前提として、哲人はまず教育の目標を生徒の「自立」とした。ただ学問を教えるだけでなく、対人関係の在り方や「自分で決めていい」という選択、その際の判断材料を教える場として学校を定義したのだ。そして、生徒の「自立」を支援する際の指針が「尊敬」だとした。これは特定の人を憧れたり敬うといった「尊敬」ではなく、この世界にたった一人しかいない、かけがえのない存在として他者をありのままに受け入れるという意味合いの「尊敬」である。

 人の話を聞こうともしない生徒を尊敬するなど無理だし、生徒が問題行動を起こしても叱らないという態度は、極論すれば泥棒ですら捕まえてはならないと言っているのに等しいと青年は反論する。これに対し哲人は、民主的な手続きによってつくられたルールを遵守することが大切だと論を進める。

 学級をひとつの民主主義国家だとしよう。「主権」は国民である生徒にあり、彼らが合意に基づいたルールを制定し、全生徒に適用されるのが民主主義の在り方だ。もし誰かが独断でルールを制定し、運用も不平等だとしたら国民は黙っていない。その反発を抑えるために為政者は「力」で強制しようとする。これが独裁国家というものだが、知らず知らずのうちに青年は子どもたちに独裁を敷いていると哲人はいうのだ。

 子どもが問題行動を起こす背景に「知らなかった」ことが考えられる。この場合、親や教師がとるべき行動は叱ることではなく、ルールや善悪を教えること。逆に「わかって」いて子どもが問題行動を起こす場合がある。アドラー心理学ではこれを生徒の目的から考えてゆく。

 それは、学級という共同体のなかで特別な地位を得たいという欲求である。そこで生徒は教師にほめられる行いによって注目を集めようとする。一見いいことのように思えるが、学業でほめられないとなると途端に意欲を失い、今度は一転して教師をからかったり、いたずらをするといった別の手段で注目を集めようとするものなのだ。これがさらに進むと、教師への反抗や憎しみに変わり、対立は激しくなるばかり。だからこそアドラー心理学では「ほめてはいけない、叱ってもいけない」という態度をとる。

 「ほめられること」や「叱られないこと」を目的に他者に従う人が集まった共同体は、褒章を目指す競争原理に支配されてしまう。前作でも説かれたように、対人関係の軸に「競争」がある限り、他者が敵のように映り、不安や悩みばかりが増大する。そうではなく、「協力原理」に基づいて共同体は運営されるべきだと哲人はいう。同時にそれが民主主義の根幹でもあるのだ。

 もともと人間は身体的に弱く、厳しい自然環境を単独では生きていけない。ただ群れをつくるだけでなく、狩りが得意な者と弓を作るのが得意な者が協力する「分業」という画期的な生産手段を見つけた。これがアドラーの「仕事」の定義でもある。自分の生命やアイデンティティに関わるものであるため、人間にとって「孤立」ほど恐ろしいものはない。そのため共同体のなかで特別な地位を得ようとする「所属感」が人間の根本的な欲求になったのだ。

 つまり「仕事」とは、自分が生きていくために否が応でも協力しなければいけない分業の関係性であり、アドラーは「利己」を極めると「利他(=他者貢献)」になると考えた。こうした分業を成立させるには、他者を信じなければならない。だからこそ他者を「尊敬」する必要があり、学校とはそうした共同体感覚を教えていく場として定義されるのだ。

 他者を信じるという行為は、受動的なものではなく能動的な働きかけである。ここでようやく哲人が最初に命題として掲げた「愛」へと議題は移ってゆく。哲人のいう「愛」とは、「わたしの幸せ」を願う一人称ではなく、「あなたの幸せ」を願う二人称でもない。自らの意思で「わたしたちの幸せ」を築きあげようとする決意こそが「愛」だというのだ。

 誰もが子どもの頃は弱くて自活ができない。そこで弱さをアピールすることで、母親をはじめ周囲の大人を自分の望みどおりに動かそうと働きかける。これは子どもだけの話でなく、多くの大人が不幸やトラウマを「武器」に他者をコントロールしようとしているものなのだ。

 こうした「自己中心性からの脱却」が、アドラーのいう真の「自立」である。その際、自己と不可分なる「わたしたち」の幸福を願う「愛」こそが、「わたし」からの解放につながるというわけだ。しかし、頭では理解できても、なんでもない日々のなかで決意を保ち続けることは難しい。日々の試練に打ち勝つには、「愛する勇気」すなわち「幸せになる勇気」が大切になってくるだろう。

『幸せになる勇気』3つのポイント

●教育の目的は、子どもの「自立」にある

●文明は、他者を信じる「分業」(=仕事)によって築かれた

●「自己中心性」から脱却するために「愛する勇気」を持つ

文●大寺 明