『小倉昌男 祈りと経営』要約まとめ

“宅急便の父”こと小倉昌男の人生は、自己を犠牲にした闘いの連続でした。小倉昌男が官庁の規制と闘わなければ、今のような宅急便のサービスは世の中にないかもしれず、彼が発明した世界に類をみない物流システムなのです。著書の『小倉昌男 経営学』がビジネス書の名著として読み継がれていますが、本書は彼の晩年の行動を綿密に取材し、「小学館ノンフィクション大賞」を受賞。伝説の経営者が抱えていた心の問題とは?

「宅急便」の生みの親として知られる小倉昌男が他界したのは2005年のこと。1971年に創業者の父の跡を継いでヤマト運輸の社長に就任し、低迷していた業績を回復させるべく、1976年に「宅急便」を開始した。それ以前に郵便以外の個人向けの配送方法はなく、小倉は規制緩和のために官庁と闘い、行政訴訟も辞さなかった。さらに90年代に立ち上げたメール便では郵政省(現総務省)と「信書」をめぐる論争で闘った伝説的な経営者である。

 1993年に小倉は自身が所有するヤマト運輸の株(時価24億円)を原資にヤマト福祉財団を設立している。障害者が働けるパン屋「スワンベーカリー」を立ち上げ、障害者が月給10万円を得られる仕組みづくりに取り組んだ。そして2001年には残りの株(時価22億円)も財団にまるごと寄付しているのだ。名経営者にふさわしい社会貢献のように思えるが、本書の著者であるジャーナリストの森健には3つの疑問があったそうだ。

 小倉は福祉への取り組みについて、自著で<実ははっきりした動機はありませんでした。ただハンディキャップのある人たちになんとか手を差し伸べたい、そんな個人的な気持ちからスタートしたのです。>と説明している。私財のほとんどにあたる46億円を投じながら<はっきりした動機>がないということが奇異に思えたことが、まずひとつ。

 規制と闘い続けてきたことから、小倉は「闘士」「論理と正義の人」という印象を持たれているが、小倉は自分のことを「気が弱い」とたびたび表現し、パブリックイメージと実像とのギャップを口にしている。こうした人物評への疑問がふたつ目である。

 そして三つ目の疑問が最晩年の行動だ。小倉はがんを患いながら自分の意志で渡米し、ロサンゼルスの長女宅で亡くなっている。なぜ80歳の高齢になってアメリカに渡ったのか。既出の書籍や資料にあたるだけでは、小倉の人物像がいまひとつ明確な像を結ばない。こうして著者は小倉を知る関係者に取材を重ねていくのだ。

 小倉が福祉や寄付活動に目覚めるきっかけに妻の玲子の存在があった。熱心なクリスチャンだった玲子は、「60歳になったらボランティアをやりたい」と話しており、玲子の死後、その意志を受け継ぐように小倉は北海道の修道院の建設費に3900万円を寄付し、さらに玲子の故郷の町に福祉基金として1億円を寄付している。

 宅急便事業に取り組んでいた頃の小倉は、仕事一筋で家庭を顧みない日々を送っていた。その当時、小倉が掲げていたスローガンが「サービスが先、収益は後」である。一方には運輸省がもつ不条理な許認可や規制との闘いがあり、社内では資金調達などの実務的な問題があり、さらには新しいサービスを徹底させる闘いがあった。

 結果をいうと、いずれの闘いにおいても小倉は勝利したわけだが、取材を進めていくうちに、この時期の小倉はもうひとつの大きな闘いを抱えていたことが明らかになる。それが長女の真理と玲子夫人の家庭の問題だった。

 周囲の人から見ると、真理はわがままで派手な娘という印象だった。家では大声で両親をののしり、手が付けられない状態だったようだ。もともと狭心症を患っていた玲子夫人は、娘の問題行動がストレスになったことと、一族から子育てに失敗したと非難される精神的苦痛から逃れようとアルコール依存症になっていたという。

 会長職に転じた後の小倉は、過疎地の営業所を視察する名目で毎月、北海道を訪れていたが、その際、自費で玲子夫人を同行させ、ふたりで北海道旅行を楽しむようになったが、これも玲子夫人をひとりで家に置いておけないという切実な事情があったようである。一方で娘の真理はアメリカ海軍の黒人男性と結婚し、第一子を出産する。それから間もなく玲子夫人が急逝してしまうのだ。

 その翌年に小倉にがんが見つかる。若き日の小倉は当時不治の病とされていた結核を患ったことで、生と死について深く考えたという。そうした経験から小倉は「おれは生かされているんだよ」とよく口にしていたというが、がんの手術が無事成功したことで、よりこの思いが強くなったのだろう。こうして小倉は私財を投じて福祉財団を設立することを思い立つ。

 ヤマト運輸引退後、福祉業界の改革が小倉の目標になった。障害者に少しでも多くの賃金を払える仕組み作るべく、小倉は42年間にわたってヤマト運輸の経営で培った経験を役立てようと考えた。全国各地で経営セミナーを開き、手弁当で講演を行うなど精力的に活動していたが、私生活の面では真理の一家がアメリカに移住し、豪邸にひとりわびしく暮らしていた。

 最終章で著者は渡米し、直接、真理に話を聞くことですべての疑問が解き明かされる。真理はわがままな問題児だったわけではなく、「境界性パーソナル障害」という精神疾患を抱えていたのだ。11歳の頃から家で暴れるようになり、家庭は戦場と化していたわけだが、大人になってから病名が判明した。有効な治療法もなく本人もずっと苦しんでいたが、小倉の死後、ようやく自分に合った薬と出会い、今ではすっかり落ち着いた様子だった。

 小倉が障害者福祉の財団を設立したのも、娘のように精神疾患を抱えて働くことが困難な人の自立を願ってのことであり、仕事の忙しさのあまり妻と娘の力になれなかったという贖罪のような思いがあったのではないかと著者は想像する。後日談として、真理は長らく精神疾患に苦しんできた経験を活かしたいと考え、社会福祉の活動を始めたという。

『小倉昌男 祈りと経営』3つのポイント

●「サービスが先、収益は後」

●成功の陰に、人知れず人生の苦難あり

●与えられた命を、社会のためにどう生かすか?

文●大寺 明