僕の人生は博打みたいなもの。ラオス初のフリーペーパー創刊編集長が語る独立ノウハウ

森 卓(もり・たく)
フリーペーパー『テイスト・オブ・ラオス』 森 卓(もり・たく) 1977年大阪府生まれ、富山県育ち。大阪の高校卒業後、立山黒部貫光株式会社に入社。1年で退職し、仕出し料理屋、タイ料理屋などで働いた後、アジアを8カ月旅した。一端帰国してラオスの民族織物の企画展を主催した後、ラオスに移住。現地にて通訳、旅行代理店、制作会社を経て2004年にラオス初の日本語フリーペーパー『テイスト・オブ・ラオス』を創刊。

laosta_sab00――独立DATA――
●26歳で独立
【開業資金】計50万円
<内訳>
・資本金 40万円
・事務所兼住居費(年間)10万円

――事業内容――
Professional Media Corporation (Lao) Sole co.,Ltd
・2004年創設
季刊(年4回)の日本語フリーペーパー『Taste of Laos』の制作。年間32000部(8000部×4回)を発行し、空港、インフォメーションセンター、有名レストラン、ツアー会社などに配布されている。出版事業のほか、映像制作の編集・制作、イベントプロデュース、メディアや企業進出のコーディネートも行う。ライター・編集者など日本人制作スタッフも募集している。

旅好きが高じて海外移住を考える人は多い。しかし、一番の問題は現地でどう稼ぎ、生活を成り立たせていくかだ。今回取材したラオス初の日本語フリーペーパー『テイスト・オブ・ラオス』を創刊した森さんは、編集経験もなくいきなりラオスで出版事業をはじめ、ゼロから食い扶持を開拓していったスゴイ人。その生き方は「とりあえず行ってから考える」というものだった。

無計画で旅に出た。ヨーロッパまで行くつもりが、ラオスの居心地のよさにハマって長期滞在することに

laosta_sab01 父も母も料理人だったんです。高校卒業後、特にやりたいこともなかったので、料理人の道に進むために鉄道やホテルを運営する立山黒部貫光の調理部に就職した。会社が提携している定時制高校があって、仕事の後に社会人向けの調理コースに通って調理師免許を取得することにしたんです。実は何年か前に母もその調理コースに通っていたんですよね。調理コースで冠婚葬祭向けの仕出し屋の社長と知り合って、休みの日にアルバイトで入るようになった。その社長の誘いで、会社を1年ほどで辞めて仕出し屋で働くことになったんです。

 だけど、地方の新興仕出し懐石料理屋では、業務用の既製品を使うことが多くて本格的な料理を教わることができない。すべての料理を一から作れるようになりたいと思って2年で辞めることにして、東京の料亭に修業に出ようと考えたんです。仕事を辞めて時間ができたので、上京する前に旅をすることにしたんですよね。

 車で熊本まで行って、今度はそこから飛行機で沖縄に行った。3週間くらいそんなことをしているうちに旅が面白くなってきて、今度は海外を旅してみたくなったんです。一応は旅のテーマに「食」を掲げて、中華料理、イタリアン、フレンチの本場を周ろうと思ってヨーロッパまで行くつもりだったんだけど、ほぼ無計画の旅でしたね。そのときは必ずしも料理人になろうという感じでもなくなってましたね。

 まず上海から入って中国を1カ月半くらい旅した。旅の資金を作るために1年ほどアルバイトしたのがタイ料理屋だったこともあって、次は陸路でタイに行ってみることした。このとき初めてラオスという国があることを知ったんです。

 ラオスに入国した瞬間、解放感に包まれましたね。中国では物売りや客引きとの戦いの日々でしたが、ラオスはとにかく人がいい。コンクリートの建物が少なくて空は広いし、道路は赤土で「なんだここは!」と驚きましたね。それがすごく印象的だったんです。

 タイで友人と待ち合わせをしていたので、ラオスは駆け足で通り過ぎて、その後、タイからマレー半島を旅することした。ところが、深夜バスの中で手持ちの現金が盗まれてしまったんです。面白いことに100ドルとパスポートだけ残されてました(笑)。トラベラーズチェックが30万円ほどあったのでなんとか旅を続けることができたけど、その後は母に、日本に残してきた自分のクレジットカードを送ってもらって、貯金残高もわからず旅をしてました(笑)。

 それからインドネシアに渡ってタイに戻ったわけです。その次はカンボジアとベトナム、チベット経由でネパールとインドを旅するつもりだったんだけど、その前にもう一度ラオスを見ておきたいと思ったんですよね。ところが、そのままラオスに数カ月滞在して旅が終わってしまった(笑)。

旅先でラオス移住を決めた。これから発展していく国なら、自分がラオスの歴史に関われるかもしれない

laosta_sab02 8カ月も旅をしていると、どう旅を終えるかが後半のテーマになってくるんですよね。日本社会を窮屈に感じて逃げるように旅に出たところもあったわけだけど、3、4年も沈没(無目的な長期滞在)している人を見ていると、このままずるずる旅を居続けるのも怖くなってきた。日本社会に戻れるのか……という不安がありましたね。かといって自分で納得しないと旅を終われない。

 このときすでにラオスに移住することを決めてました。僕はもともと歴史が好きで国の成り立ちというものに興味があった。成熟した日本でそれを勉強するよりも、これから発展していく国に住めば、それを直に見られると思ったんです。自分がやったことが、その国の発展や歴史に関わることもできるかもしれない。だけど、その前に日本で何かをやっておきたいという気持ちがあった。

 ラオスに在住している織物に詳しい日本人と知り合ったことから、日本でタイとラオスの織物の展示会をやることにしたんです。織物には民族の歴史や想いが込められていて面白いと思ったんですよね。身辺整理もかねて一端帰国して老舗の紳士服店が経営しているギャラリーで企画展をやらせてもらうことが決まった。それでまた織物を仕入れるためにタイとラオスを旅したんです。

 織物の展示だけでなく、紀行文と写真を合わせて物語として見てもらう企画にしました。日本に戻ってから織物の勉強をするために本を読み漁ったり、日本各地の織物の博物館に行きまくった。付け焼刃だったけど、自分なりに勉強して書いたりしゃべったりして好評でしたね。企画展が無事終わったので、とりあえず3年ほど住んでみるつもりでラオスに行くことにしたんです。

 僕は常に「行ってから考えればいいや」という独特のスタンスなんです(笑)。企画展で70万円くらい利益が出たんだけど、余裕があると動かないタイプだから、新しいカメラを購入したり、あえてタイで散財してラオスに入国したときには300ドルくらいしかなかった。とりあえず知り合いの日本人の家に転がり込んで、その後、仲良くなったラオス人の家に1カ月くらい住まわせてもらった。宿泊費はかからないとはいえ、どんどんお金が減っていく……。何としてもラオスで仕事を得ないといけないのに、やっぱり所持金が30ドルくらいになるまで動かなかった(笑)。

 旅行会社の面接をいろいろ受けたんだけど、どこも「日本人の客はいないから」と断られましたね。ホテルマネージャーの日本人に相談に行ったところ、たまたま通りかかった日系の旅行会社の人を紹介されて、その場で仕事が決まったんです。その会社は日本料理屋も経営していたので、どちらかというと調理経験を買われたわけですが、調理する人は別にいるのでホールの仕事でした。こうして昼は旅行会社、夜は日本料理屋で働くようになったんです。

まだ誰もやっていないことがラオスにはある。出版経験なしで、ラオス初の日本語フリーペーパーを創刊

 その日本料理店は数名の常連で成り立っているような規模で、1年ほどすると、わざわざラオスにまで来て狭い日本人社会にいることに嫌気がさしてきた。また無計画で飛び出して、今度はラオス人経営の旅行会社に入ることにしたんです。給料ナシで客を引っぱってくる歩合制で交渉しましたね。観光ビザが切れかかっていたので、会社にビザの保障をしてもらうという目的もあった。

 だけど、僕にお客が付いているわけでもないので収入が入ってこない。仕事の制約がないから時間だけはあったので、ラオスを全県周る旅行に出たんです。そのとき1000ドルあったのが旅費で300ドルくらいに減って、どうしよう……となったとき、たまたま道端で日本人の中年女性と知り合ったんですね。ちょうど通訳を探しているという話だったので、やらせてもらうことになった。

 その頃は日常会話くらいのラオス語は話せるようになってましたけど、実際は通訳のレベルではなかったですよね(笑)。その人がラオスに滞在している間は、1日20~25ドルくらいになって不定期の仕事だけど生きていくぶんにはなんとかなる。でも、お金以上に通訳を通していろんな人に会えて、あのときは本当に面白かったですよね。

 その後、自分で何かをやりたいと考えるようになってフリーペーパーを作ることを思いついたんです。旅行代理店でガイドの仕事をしているうちに、ラオスのことをもっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになって、自分で原稿を書いて、タイの新聞社や出版社に持ち込んだこともあったんだけど、興味を持ってもらえなかったんですよね。当時ラオスにはフリーペーパーがなかったので、他がやらないなら自分でやろうと思った。ビジネスとして誰もやっていないということは、自分がやればラオス初のことになるわけだから。

 そこでまずラオス国営航空の機内誌を発行している制作会社に無給で入れてもらったんです。広告営業の仕事だったけど、それは口実で制作の現場を見ることが目的でした。今は全部DTPだから、ソフトさえあれば自分でもできそうだと思って、まず2ページくらいの日本語の記事を作ったんです。それから社内でフリーペーパーを立ち上げることにした。

 ラオスは社会主義の国なので出版をするには政府の許可がいる。その許可を取るためにもまず社内でフリーペーパーを作る必要があったし、会社が使用している印刷所を使うこともできる。会社にマージンだけ払って、制作や経営は僕の方で別にやるというかたちをとったんです。

僕の生き方は博打の繰り返し。とにかく面白いことがしたい。常に自分を追い込んで、勢いで形にしてきた

laosta_sab03 その頃、好きになったラオス人女性と結婚することになったんです。それを機に独立することにした。ラオスは情報統制をしている国なので、ラオス人名義でないとメディア関係の会社が設立できない(飲食店などは日本人経営でも可)。そこで嫁さん名義で法人化して、実質は僕が経営をするわけです。

 最初は制作と経営だけでなく、広告も自分で取りに行かないといけなかった。フリーペーパーの効果に店側も半信半疑でしたけど、勢いだけで40件広告を取りました。最初から黒字です。でも、フリーペーパーってこれだけじゃないんですよね。集金も配布も全部自分一人でやるわけですよ(笑)。流通のシステムがないから自分で配らざるをえないんですよね。

 1年くらいして、知り合いの息子さんがうちで働かせてほしいということになって初めて人を雇うことになった。その後、営業と集金、配布を人にやってもらう体制にして、多いときで5人くらい従業員がいましたけど、日本語のフリーペーパーなので制作は自分にしかできない。創刊から10年になるけど、6、7年は自分一人で制作してましたね。

 会社はずっと順調だったんだけど、結婚6年目で離婚することになったんです。嫁さんは自分たちの習慣や祭、家族を一番大事にする。だけど日本人の僕は仕事を優先する。そうした問答が四六時中あるわけです。だんだん感情が加わって諍いばかりになった。彼女が悪かったとは思わないし、僕が悪かったという問題でもない。ただお互いに若かったですよね(苦笑)。

 離婚したことで会社の名義を嫁さんにしておけなくなって、従業員に名義を移すことになったんです。ところが、その従業員がトータルで4000ドルほどちょろまかしていたことが発覚したんですよね。ある意味、彼には悪気がない。たとえば僕が1万ドル持っているとしたら、そのうちの千ドルをちょろまかしても屁でもないでしょ、という感覚なんです。すったもんだありながら事業登記を一度閉めて、新しいラオス人パートナーを見つけることにしましたね。

 フリーペーパーは自分がやりたくてやっているもので、あまりビジネスだとは捉えてないんですよね。本当にビジネスのことを考えるなら、たぶんラオスにはいないと思う。ラオスは自分が一番わかっている国で、面白いことができそうだからここにいる。だから、コーディネーターやガイドもやるわけです。今は自分のなかでも新しいチャレンジとして、日本ラオス外交樹立60周年を記念した、日本ラオス合作映画を企画しています。この1年は頻繁に日本とラオスを行き来していて、すでに300万円ほど投入しているけど、周りから見たら、これも博打ですよ。まぁ、勝算はありますけどね。

 僕の生き方は博打の繰り返しみたいなものだと思う。最初の博打は何も知らずに海外を旅したこと。次が所持金300ドルの片道切符でラオスに来たこと。3度目が所持金3ドルになり、500kmの都市間を歩いて、着いた先でトレッキングツアーをやったこと。4度目が所持金300ドル、知人に借りたコンピュータでフリーペーパーを立ち上げたこと。あれから10年くらい博打をしてないから、そろそろ次の博打がしたくなってきた(笑)。

海外で起業独立ノウハウ集

独立前

一人旅をして自分を鍛えるべし

もともと森さんは厨房でマイペースに仕事をする大人しいタイプだったが、海外を一人旅するうちに「自分なりの強さを持てた」という。特に中国を旅すると、物売りとのコントのような駆け引きが毎日のように起きる。そうやって人に揉まれるうちに精神的にタフになり、物おじしない行動力が身に付いた。この度胸と行動力で森さんは活路を切り拓いてきたのだ。

飲食経験が営業に活かされている

意外なことに日本での飲食経験が営業に活かされたという。調理場とホールを経験したことで、席数から客数を割り出し、原価や客単価などの計算をして売上が予測できるのだ。その中から無理のない広告費を提案するのである。実際に広告を出すと、てき面に反響があるという。広告費と相殺して収益がプラスになれば、広告は継続される。広告料金をお店の立場で考えることで、店舗からも信頼されているのだ。

考えるよりも飛び込むべし

森さんは編集経験ナシでフリーペーパーを立ち上げ、今もまた映画業界の経験ナシで日本ラオス合同映画のプロデュースをしている。経験のあるなしで人は自分の行動を限定しがちだが、森さんにはそれがない。とにかく自分が面白いと思ったことはやってみるという行動指針だ。その際、自分がやりたいことを周囲に言いまくるそうだ。そうすると「面白い」と思ってくれた人が協力してくれるものだという。

独立後

現地を熟知した強みを活かすべし

『テイスト・オブ・ラオス』は3カ月ごとの季刊だ。制作は1~2週間ほどでできるため、それ以外の時間は日本のテレビ番組や日本企業のラオス進出などのコーディネート、ガイドやイベント開催など、ラオスを熟知する強みを活かして、さまざまな仕事をしている。お金のためというよりも「面白そうだから」という好奇心が原動力。そこでまた新たな情報が得られ、自分にとってもプラスになっている。

第一人者になるべし

『テイスト・オブ・ラオス』は2004年創刊の老舗フリーペーパーだ。ここ最近、資金力のある同業他社が新規参入したが、ラオスのように昔からの付き合いを大事にする小コミュニティーでは、「森さんのところに頼もう」となり、やはり老舗が強い。誌面においても、旅行者向けの特集と、現地在住者によるディープな読み物で万遍なくラオスの魅力を伝えることを編集方針とし、老舗ならではの充実した内容となっている。

浦島太郎になるべからず

森さんからするとラオスに永住することは簡単なことだという。しかし、浦島太郎のようになるつもりはない。余裕ができるとなるべく日本に帰国して刺激を受けるようにしている。昨年はラオス日本合同映画のプロデュースと、日本企業のラオス展開のために年4回帰国した。ラオスではアウトプットすることがほとんどなので、こうして度々日本を訪れてインプットすることを心がけているのだ。

取材・文●大寺 明

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ラオス情報のポータルサイト
人口約700万人、東南アジア唯一の内陸国であるラオスで、2004年に創刊された初のフリーペーパー『テイスト・オブ・ラオス』編集部による日本語ポータルサイトです。
ラオスは世界遺産都市ルアンパパーンをはじめ、急発展を遂げる首都ヴィエンチャン、バックパッカーに人気の山間リゾート地バンヴィエンなど、旅の魅力が盛りだくさん。
いにしえの遺跡や雄大な自然だけでなく、ラオスは人そのものが観光資源。シャイで人懐っこいラオス人の微笑みは、どこか懐かしさすら感じさせます。ふと立ち止まって「素の自分を振り返ることができる国」、それがラオスです。
ラオスを訪れた際はぜひ『テイスト・オブ・ラオス』を手にとってみてください。観光情報と充実のコラムで、ラオスのディープな魅力をお伝えしています。