映像制作で起きる問題の99%がコミュニケーション不足。僕の仕事はイメージを“説明”すること。ディレクターが語る独立ノウハウ

風来漢 Buraikan
井口昭久
/1978年東京都生まれ。
神奈川大学法学部卒業後、渡米。語学学校、大学に1年半在学し、その後、ハリウッドの映画学校の監督コースで1年間学び、ロサンゼルスで3年間を過ごす。帰国後、映像制作会社に入社し、プロデューサー職に4年半携わる。独立後は「風来漢(ブライカン)」の屋号で、映像ディレクターとしてCMをはじめ企業や商品のプロモーション映像の制作に携わる。

――独立DATA――
30歳で独立
【開業資金/0円】
映像ディレクターというと、さまざまなハイエンドの機材が必要になるかと思いきや、基本的にパソコンさえあればOKとのこと。井口さんの場合、自前のパソコンを使い、作業は自宅で行っているので開業資金は一切かかっていない。

――事業内容――
■風来漢(ブライカン)
映像ディレクター

企業、広告代理店、映像制作会社などから依頼を受け、CMやプロモーション映像などのディレクション業務を請け負う。クライアントとの打ち合わせをもとにした映像のイメージを企画書や絵コンテにまとめ、カメラマン、俳優、ナレーター、編集などのスタッフを指揮し、映像の完成まで全責任を持つ。その他、プライベートの活動として自主制作映画の製作も行っている。

「ディレクター」という職種名はよく聞くけれど、業界以外の人には今ひとつ具体的な業務内容が見えてこない。「プロデューサー」との違いもわかるようなわからないような……。簡単にいうと「プロデューサー」は予算やスタッフ、進捗などを管理する役割であり、「ディレクター」は映像制作の監督や演出家といった役割だ。今回取材したディレクターの井口昭久さんは、これを「説明する仕事」だという。広告映像のディレクターの世界とは?

とにかく早く家を出たくて、自立する方法ばかり考えていた。そんなときアメリカを旅行し、留学生活に憧れるように

 子どもの頃はマンガ家やバンドマンといったアーティストに憧れていたんですけど、中学生になると、とにかく早く家を出たくて自立する方法ばかり考えていましたね。そこで最初に思いついたのが自衛隊です。お金が貯まると聞いて、そのお金で世界一周の旅に出ることを思い描いたりしてました。だけど、さすがに親から反対されますよね(笑)。高校生になってからは現実的に進路を考えるようになりましたね。

 そこで考えたのが、大学の法学部に入って弁護士になることでした。大学卒業後すぐに自立して一人で生きていける仕事、という安易な発想だったわけですが、実際は司法試験というと最難関の資格じゃないですか。そう簡単に取得できるものではないことがわかって、大学生活にも失望してしまった……。早々に大学に行かなくなってしまって、塾講師のアルバイトに打ち込むようになったんです。

 その塾は百数十校を展開していて講師が3000人以上いたんですけど、多少は素質があったのか、講師の評価制度で常にトップ5に入っていたんですよ。時給もよかったし、生徒を教えることも楽しくて、すごくやり甲斐を感じていましたね。当然、大学にはまったく行ってないわけだから、留年確定という状況です。僕としては大学をさっさと辞めてしまいたかった。

 そんなとき、以前にアメリカ生活をしていた塾講師の同僚からアメリカ旅行に誘われたんです。ロサンゼルスに行ったんですけど、そこでさまざまな日本人留学生と出会うんですよね。音楽活動をしたり、みんな何かしら目的を持ってアメリカで暮らしていて、そんな生活に憧れるようになった。そこで自分だったら何を目的に行くといいか、自分を一度棚卸ししてみたんですよね。そしたら子どもの頃の自分はアーティストになりたかったんだと思い出して、ずっと映画が好きだったこともあって、ハリウッドで映画監督の勉強をすることが思い浮かんだんです。

 旅行から帰ってから、某映画配給会社が運営する専門学校に見学しに行くことにしました。当時の僕の状況としては、早く大学を辞めたくて悶々としていて、だけど親は大学だけは卒業してほしいということで休学することになっていました。一方で塾講師のアルバイトにものすごくやり甲斐を感じていた。専門学校の人にそうした状況を話したところ、「大学を卒業して、塾講師の仕事をやり切ってからでも遅くない」と諭されたんですよね。

 なぜかというと、映画業界に入ると撮影で1カ月出ずっぱりということもザラで、アルバイトもできないから自活していくのは難しいというわけです。この助言があったおかげで、なんとか大学を卒業して、塾講師の仕事も納得できるまでやり切ることができたんですよね。

アメリカの映画学校で1年間勉強。帰国後、制作会社に入社するも、本来やりたかったディレクター職ではなかった

 大学卒業後、アメリカのロサンゼルスで生活することにしました。最初は語学学校に通って、その後、1年半くらい大学に在学して、それから映画学校の監督コースで1年間(※当時の学費は1年で300万円だった)勉強しました。それが本当の目的だったわけですけど、アメリカの映画学校はとにかく実践的でしたね。日本のように座学中心ではなく、ショートフィルムを毎週1本制作する課題があって、1年間で50本です。おかげで技術は身につきましたね。

 映画学校卒業後もアメリカに残るつもりだったんですが、ビザを取るためにはアメリカで仕事を見つけなければいけない。そこでユニバーサルスタジオが運営するテーマパークで半年ほどインターンで働くことにした。一応は映画スタジオ内の勤務ですけど、実際は「ビッチボーイ」といって、雑用ばかりの超下働き。そんな生活を続けているうちに、ホームシックにかかってしまったんですよね……。「ハリウッドで学んだことを日本で試すのも悪くない」と考えて帰国することにしました。

 帰国後、映像制作会社の面接を受けたんですが、とあるプロダクションの面接でアメリカでの経験を話したら、「きみだったら就職しなくても、フリーランスとしてやっていける」と言われたんですよね。だけど、当時の僕からすると、フリーランスで生きていくなんて意味がわからない(笑)。まったくピンとこなくて、結局、企業のPR映像を手がける制作会社に就職しました。

 40名規模の会社だったんですけど、社長に気に入られたこともあって、入社3カ月でリーダーに出世させてもらったんです。ただしディレクター職ではなく、プロデューサー職でした。自分のセンスを活かした映像制作をやりたかった自分からすると、本来やりたかった仕事とはかけ離れている。「ディレクター」とは映像の監督や演出家で、「プロデューサー」は制作の管理をする仕事です。案件を取ってきて予算組みをして、スケジューリングとスタッフィングをするという役割なので、直接的に制作に関与できない立場なんですよね。

 ずっと悶々としながら仕事をしていたんですが、結局4年半勤めました。アメリカで貧乏学生をしていたのが、そこそこいい給料が貰えるようになって、プライベートで友だちと遊んだりするほうが充実してしまったからです(笑)。そうこうするうちに時が過ぎていった感じで、30歳を目前に焦りが募りましたね。会社がイヤだったというより、早くしないと、自分がやりたいことが、どんどん遠ざかっていくような焦りです。なんのためにハリウッドまで行ったんだって……。

30歳を機に一からディレクターの修業をし直すつもりが、転職先が決まらず、強制的にフリーランスとなる

 30歳に差しかかり、もう一度ちゃんと演出家・ディレクターとして修業し直すなら今のうちだと考えるようになって、会社勤めをしながら転職活動を始めました。ところが、これがことごとく受からない(笑)。だけど、自分はもう違うところを向いてしまっているので、仕事にまったく身が入らないわけです。案件を任され、部下もいるという立場上、早めに退社の意向を伝える必要があって、まだ採用結果が出ていないのに会社を辞める日だけが決まりました。

 そのとき3社ほど面接を受けていたんですが、某テレビ局のドキュメンタリー制作のディレクター職で最終面接まで進んでいたんですよね。ところが結果から言うと、どれも受からずに退社日を迎えてしまった(苦笑)。つまり僕は自分の意志で独立したわけではなくて、強制フリーランスなんです(笑)。

 フリーランスでやっていけるという確信はなかったんですけど、僕は楽観的なところがあるので、焦りや不安もなかった。とりあえず3カ月間は失業保険も出るし、なんとかなるんじゃないかって(笑)。むしろ、せっかく会社員じゃなくなるんだから、年に1回は必ず海外旅行に行こうと思いましたね。そして実際に退社してすぐにニューヨークに1カ月間行ったんです。次どうするか何も決まっていないにも関わらず(笑)。

 帰国後、前職で僕を指名してくれていた何人かのクライアントの方に、「独立しました」と挨拶回りをすることにしました。これが本当にラッキーだったんですが、一番最初に挨拶した方が、その場で仕事を振ってくれたんですよね。その方は、会社で決まった仕事をしている人より、独立して自分の腕で勝負している人を評価していて、僕が独立したことを喜んでくれたんですよね。今でもこの方にはメンターとしてすごくお世話になっています。

 とりあえず、スクールのPR映像の仕事が1本決まったわけですけど、それだけでは収入的にやっていけない。そこでクリエイター専門の派遣会社に2社登録しました。すると、かなり予算の大きいCM制作のサポート業務に派遣で入ることになったんです。そこで自分の実力さえ認めてもらえれば、その後は直接、声がかかるはずだと考えていました。そして実際に、直で仕事が来るようになったんです。いわば最初の突破口だけ派遣会社を利用させてもらったわけです。

「どうやってディレクターになるのか?」ということを、あらためて考えると、「僕は今日からディレクターです」と勝手に名乗るだけだと思いますね。「あなたは何屋さんですか?」と聞かれたときに、はっきり自信をもって言えることが大事なんですよね。

ディレクターは制作の全権を持つ人。さらに言うと、イメージを“説明する人”です。コミュニケーションがうまくいくと、いい映像ができる

 フリーランスのディレクターの仕事は、まずお客さんの要望を聞くことから始まります。どういった商品を、どういったタレントを使って、どんな雰囲気でPRしたいのか。こうした要望を理解したうえで、商品知識を勉強して効果的なプロモーションを考えていきます。これに関しては、1時間でアイデアが降りてくることもあれば、丸1日考えて何も浮かばないこともあって、スケジューリングができない。僕の場合、家でずっと瞑想しながら考えます。だから傍からは昼寝をしているか、ボーッとしているようにしか見えない(笑)。

 基本的に打ち合わせの時間が多いわけですが、フリーランスになると予算の話もしなければいけない。そこで前職のプロデューサー経験が生きてくるんですけど、これがジレンマでもある(笑)。限られた予算の中で、必要な経費を千円単位で計算して、お客さんが求めていることを実現しようとするわけですが、あまりお金のことに意識が捉われると、本来、ディレクターとして考えなければいけないクオリティー面が疎かになりがちなんですよね。

 このシーンはこう撮れば絶対にいいものになるはずなんだけど、予算をオーバーしていろんな人に迷惑がかかるからやめよう……と考えるようになると、アーティストとしてはあまり褒められたことじゃない。お金とクリエイティブの陣取り合戦みたいになるので、本当はプロデューサー業の人が別にいたほうがいいですよね。

 アイデアが降りてきたら文章に書き起こしていきます。たとえば30秒の広告映像だったら、まず構成を文章にするわけですが、そこで矛盾に気づいて振り出しに戻ることもある。上手くつながれば、イメージを絵コンテで描き出します。必ずしも絵が上手い必要はないですが、やっぱり絵がないとお客さんもイメージを理解しづらいので、ディレクター職の人はみんな絵コンテを描きますね。

 こうして映像の構成が決まったら、クライアントや広告代理店の担当者とさらに揉んでいきます。GOサインが出たところで、ようやくカメラマンや撮影場所を手配するブレイクダウンが始まります。プロデューサーが制作の管理をする人だとしたら、ディレクターはその映像制作の全権を持つ人。さらに言うと、自分の頭の中にあるイメージを“説明する人”なんですよね。

 時間と予算に限りがあるわけですから、作り直しのやりとりを最小限に抑えないといけない。いかにクライアントの要望を聞き出して、的確にスタッフに伝えるという変換作業が上手くできないと、現場が止まってしまうわけです。特にこの業界はせっかちな人が多いので、長々と説明せずにストレートに伝えることが大事なんですよね。

 表現に関わる仕事で起こりうる問題の99%が、聞き出し不足、説明不足、理解不足といったコミュニケーションの行き違いなんです。そこは常に最大限の注意を払っていて、お互いが気持ちよく仕事をできるようにすることで、いいものを作っていきたいと思っていますね。

映像ディレクター 独立ノウハウ集

独立前

大勢の人をまとめる経験を積むべし

撮影現場では20~100人といった大勢のスタッフが集まって仕事をする。ディレクターは彼らを指揮し、的確な指示を出さなければいけない立場だ。井口さんの場合、大学時代に塾講師として大勢の生徒を指導してきた経験が役に立っている。中学生や小学生といった多感な子どもたちを統率するにはコツがあり、これを教育現場で培ってきたことで、人をまとめることに慣れているのだ。逆にこの力がなければ、いくらセンスが優れていてもディレクターとして第一線で活躍するのは難しいかもしれない。

さまざまな予算規模の制作を知るべし

本意ではなかった前職のプロデューサー業だが、予算を管理した経験が非常に役立っているという。前の会社では100~数百万円の案件が多かったが、その予算が10倍になって、スタッフが数倍に増えたとしても予算の図式自体は同じで、仕事の流れに変わりはない。その後、派遣で数千万円規模のCM制作のサポート業務を経験したことも大きかった。図式は同じでも、やはり巨額のお金が動くと、慣れない人は戸惑ってしまうものなのだ。「規模の大きい仕事を知っておいて損はない」と井口さんはいう。

創作の原点に「感動経験」を持つべし

大学を辞めたいと悶々としていた頃、井口さんは家にこもって1日2本の映画を観ていた。映像業界で仕事をするにあたって、たくさんの映画を観て表現技法を知っておくことは必須だが、それ以上に、自身の創作の原点にすることが大事。井口さんの場合、感動できる洋画が特に好きで、他にもマンガ・小説・音楽に「人生観を変えてもらった」という想いがある。こうしたバックグラウンドがあったから、ハリウッドの映画学校で勉強して、ディレクターの道が切り拓かれたのだ。それと同じような経験を人に与えたいというのが、井口さんの創作の原点。そのためプライベートで自主制作の映画を創ったりもしている。

独立後

相手の懐に入り込むべし

井口さんはフランクで実に話しやすい人柄だ。組織や職種によって多種多様な異文化があるものだが、井口さんは異文化にとけ込むことが好きで、得意だという。これがフリーランスでやっていくための素養と言えるかもしれない。井口さんは、最初に仕事をした人の懐にどこまで入り込めるか、どこまで人間関係を築けるかを意識し、そこからさらに仕事で結果を出すことを理想としている。これがうまくハマると、相手も自分を信頼してくれるようになり、仕事もやりやすくなる。その結果、リピートにつながるのだ。リピートの仕事が多いため、井口さんはこれまで営業をしたことがないそうだ。

多種多様なプロフェッショナルとコネクションを持つべし

ディレクターは、カメラマン、編集、ナレーター、音楽制作、スタイリスト、俳優など、さまざまなプロフェッショナルとのコネクションが求められる。さらに、それぞれ違う強みを持った人を複数押さえておくことが理想。たとえばカメラマンに依頼する場合、アート性が求められる映像であれば、1カット1カットこだわって撮るカメラマンが相応しいが、タイトなスケジュールだとフットワークの軽いカメラマンのほうが適任。ファッション系の映像制作では、やはりファッション系の仕事を数多くこなしているカメラマンのほうが仕事もスムーズだ。井口さんはこうした多様なコネクションを300人以上持っているそうだ。

名刺代わりになる自分の作品を創るべし

依頼された仕事を全力でやり切ることが、フリーランスにとって次の仕事につなげるために大事なことだが、そうするとクライアントの要望に応えることが目標になり、いつまで経っても自分の作品を創れないというジレンマがある。井口さんは本来、映画監督を目指していたわけだが、たまたま広告映像の業界に入り、独立後も仕事が途切れたことがない。そのため自分の作品を創る時間をなかなか持てなかった。今現在の課題は、自分の作家性を打ち出した映像作品を創ること。自分の名刺代わりになる作品を創ることができれば、それがまた次につながり、新たなステージに移行できるはず。

取材・文●大寺 明

「風来漢」制作の観光プロモーション映像

■『懐郷 今井町』NARA

■『懐郷 今井町』今井の風


かつて「大和の金は今井に七分」と呼ばれるほど繁栄した
商業都市、今井町――。
奈良県橿原市にある今井町には、
「今井千軒」と言われた町家の町並みが、
今も当時の面影を残したまま、息づいています。